公開: 2021年5月12日
更新: 2021年5月30日
アダム・スミスは、18世紀のイギリス、スコットランドに生まれた哲学者である。彼は、敬虔なキリスト教徒であった。スミスは、産業革命が進んでいた1776年、「国富論」(原題は、「諸国の富」)を出版した。国富論は、後に経済学の基礎を作った書物と言われるようになった。彼の時代、まだ、「経済学」と言う言葉も、「経済」という言葉も存在していなかった。そのため、彼は、「富」と言う言葉を使った。富は、どのように積み上がってゆくのかを、彼は、スコットランドの人々の活動の中から見い出したのである。当時のスコットランドには、まだ、イギリスに併合される前の、中世的なカトリック教徒の倫理観が根付いていた。彼は、その背景の上に、市場の役割を見出したのである。
当時、スコットランドは、新大陸の植民地であったアメリカとの綿花貿易で栄えていた。アメリカ大陸で育てられた綿花が、スコットランドの港に陸揚げされ、市場で「競り」にかけられ、綿糸工場の経営者によって競り落とされていた。そのようにして買われた綿花は綿糸に加工され、別の市場で競りにかけられていた。今度は、綿糸を原料として綿布を織る工場の経営者が、綿糸を買っていった。そして、綿布を織り、ロンドンなどの市場で、売るのである。このようにして、安い綿花を原料にして、徐々に高価な糸、布と加工の段階が進んでゆくのであった。その途中で、製品は競りにかけられて、価格が決められ、買い手に引き取られるのである。スミスは、市場における「競り」に注目した。
それは、市場の「競り」で、誰かが悪意を持って、自分の利益のためだけに、「独占」などの行為で競りを妨害すれば、全ての経済活動が成立しなくなり、社会全体では富は築けなくなるからであった。スミスは、競りに参加する全ての人が、「競り」で決まった価格で相手に製品の原料を渡す約束を果たし、決まった価格を約束通り、相手に支払わなければ、市場が成り立たないことに注目した。このように、市場に参加する全ての人々が、公平・公正な態度で競りに臨んでいれば、「製品」には、適正な価格が決められ、取引が行われるのである。この価格が決められる仕組みを、スミスは、売り手が売りに出している製品の量(供給)と、買い手が必要としている製品の量(需要)との関係で説明した。供給の量が豊富であれば、価格は低くなり、量が少なければ、価格は高くなる。需要が多ければ、価格は高くなり、少なければ、価格は下がる。
この需要と供給がバランスするところ、つまり需要曲線と供給曲線の交点で、価格が決まるとスミスは、主張したのである。この需要と供給のバランスをとるのが市場の機能であるとした。この市場における価格決定を公正に実施するためには、市場の参加者たちの道徳的な行動が重要であるとスミスは、考えた。ここで言う「道徳的」の意味は、中世のキリスト教徒の倫理観で、「嘘を言わない」「相手の立場を尊重する」「強欲な振る舞いをしない」など、自己統制を重視した行動の規範を守ることであった。スミスは、人間社会で、人々が互いに自己統制された行為を続ける限り、社会全体は円滑に運営されると考えていた。スミスは、人間の持つ自己統制の精神を基礎とした倫理を説いた「道徳感情論」の著者でもあり、この書籍の出版に、長い時間をかけていた。
国富論において、スミスは、ジョン・ロックが提唱した、国家が国民の「生命を守る自由」、「財産を保障する自由」、そして「どんな宗教を信じるかの自由」を守る民主主義の原則と、「私有財産権を守る」イギリスで始まった産業革命によって、人々が富を蓄積し、豊かになった現実を見るとともに、人々の間に大きな富の格差が生まれ、貧困に苦しむ人々が出始めたことに気付いていた。それまでの社会では、国王と貴族以外に、私有財産を認められた人々は存在しなかった。新しい時代になって、彼の問題意識は、国民全体を豊かにするため、資本主義はどのように運営されるべきであるかに向かった。彼の答えは、人々が自己統制の規律を守って、経済運営に参加することであった。特に、嘘を言って、大きな利益を生み出すなどの、欲張った行為を自ら慎み、人々は社会全体が豊かになるように行動すべきであると考えていたようである。市場の機能が不完全な場合、市場における価格決定は、非合理的なものになり、社会全体に悪影響を及ぼすと考えたのである。
スミスは、市場で決まる製品の価格と、製品そのものの価値の違いを意識していた。その間には、強い関係はあるものの、価格そのものが価値であるとは考えなかった。彼は、製品の価値を、ロックの提唱した「効用」の概念で説明しようとした。その「効用」は、市場に供給される製品の量によって変化する。つまり、その価格も、市場に出される製品の量によって変わる。製品の量が少なければ、効用は高くなる。製品が1単位増えた時、その効用がどう変化するかを、スミスは考え、1単位増えた時に、効用は少しずつ減少する法則を見出した。これを「限界効用逓減の法則」と呼ぶ。これは、効用を製品の量で微分したとき、微分値が負になることを意味している。微分値は、製品の性質によって異なるが、それが大きな製品と小さな製品がある。生活必需品は、微分値が小さい。そして、社会に製品が余るほど供給されれば、最後に、その製品の効用はゼロになる。
後に、資本論を書いたカール・マルクスは、このスミスの「効用」を使うことで、理論的には、市場を除き、価格がなくても、製品を生産し、人々に配布することは可能であると考えた。それが、共産主義社会における生産活動を管理する計画経済である。しかし、現実を見ると、マルクスの時代に、「効用」を計測することは不可能であり、それは机上の空論であった。また、スミスは、製品を生産することは、「効用」を生み出していることとに等しいと考え、そのために労働が投入されていると考えた。労働の投入量を労働時間で測ると、1単位の効用を生み出すために必要な労働の量(労働時間)は、技術が変化しなければ、一定であるとスミスは考えた。この考えも、マルクスに影響を与えた。「労働価値説」である。技術が変化していない状況において、一定の労働量を投入することは、一定の効用を生み出していると考えられる。驚くべきことに、19世紀初頭に機械式自動計算機の開発に挑戦した、ケンブリッジ大学で数学を教えていたチャールズ・バッベージも、労働価値説の理論に関する書物を出版している。
マルクスは、市場における価格決定の機能で決まる価格によって、交換される貨幣の量の代わりに、労働時間から計算できる生産された効用の量を使うことで、貨幣そのものを社会から排除することが可能と考えたのであった。スミスは、現実の世界の観察に基づいて、価格を効用で置きかえることはしなかった。ただし、労働価値説に基づき、同じ動作を繰り返す労働でも、熟練作業者とそうでない作業者の間に、生産する半製品(部品など)の出来高が異なることから、「習熟」と言う効果を発見した。同じ動作を、作業者が繰り返すことで、動作にかかる時間を少しずつ短くすることができる。これを「習熟」と呼んだ。習熟が進んだ作業者は、一定量の効用を生み出すのに、より少ない労働の投入量で済むからである。この理論を生産工程に応用したのが、スミスの「分業」である。この分業によって、工場の経営者は、より多い利益を生み出すことができる。現代の経営学の言葉で言えば、「生産性の向上」である。
スミスは、この現代の生産性の考え方を応用して、工場における生産活動の様々な動作を細分化して、それぞれの動作を別々の作業者に行わせることで、工場全体では、同じ労働の投入量でも、より多くの生産量を実現できると説いた。「分業方式」である。産業革命の進歩で、工場内における労働が、機械を利用する活動に置き換わったため、この分業がし易くなり、その結果、「習熟」が進み、生産性が大幅に向上したのである。これによって、産業革命が進んだイギリスなどの国々は、経済が著しく発展した。特に、19世紀に産業革命が始まった米国社会の工場では、この分業が大々的に導入され、経済も著しく発展した。米国社会における経済の発展には、経済学における価格や利潤よりも、新しい経営学の視点から、効用の概念に基づいた生産性や品質の考え方が進歩し、経済は大きく発展したと言える。
アダム・スミスとその時代、ニコラス・フィリップソン、白水社、2014
科学的管理法、フレデリック・テイラー、ダイヤモンド社、2009